祝! 生誕50周年 いまや希少な初代「ローレル」を振り返る
これぞ「技術の日産」
2018年4月14日、東京都武蔵村山市にある東京日産 新車のひろば 村山店で「日産ローレル C30 発売50周年を祝う集い」が開かれた。型式名C30こと初代「日産ローレル」をこよなく愛すオーナーによって企画されたものだが、そもそも初代ローレルとはいったいどんなクルマだったのか?
今から50年をさかのぼる1968年4月に誕生した初代ローレル。良く言えば控えめで上品、悪く言えば地味な存在だったため、残存数は少なく、旧車の世界でも認知度は高いとはいえない。だが、その成り立ちをみれば、ただ者ではないことがわかるだろう。
初代ローレルの技術的特徴として、前マクファーソン・ストラット、後ろセミトレーリングアームの4輪独立懸架と、クロスフロー、ヘミヘッドの直4 SOHCエンジンが挙げられる。このサスペンションとエンジンの形式は、進歩的で高性能な中型セダンとして高く評価されていた「BMW 1500」に始まる当時のBMW各車と同じ。加えて日産車として初めてラック・ピニオンのステアリングを採用するなど、その設計は量産乗用車としては日本はもちろん、世界レベルでも先端をいくものだった。まさに往年の日産のスローガンだった、「技術の日産」を象徴するモデルだったのだ。
直線基調のクリーンなスタイリングの近似性、および前述したサスペンション形式が同じことから、初代ローレルは前年の1967年に登場した型式名510こと3代目「ダットサン・ブルーバード」を拡大発展させたモデルと言われることがある。だが実際には、開発のスタートは初代ローレルのほうが先で、それをダウンサイズして先に世に送り出されたのが510ブルーバードなのだという。
BMWほか欧州車がベンチマーク
1968年に日本初の「ハイオーナーカー」をうたって登場した初代ローレル。ボディーサイズは既存のブルーバードと「セドリック」の中間で、排気量も前者(1300cc/1600cc)と後者(2000cc)の中間の、これまた日本初となる1800cc。ブルーバードでは飽き足らないが、セドリックでは「大きすぎるし、法人用や営業車(タクシー)のイメージが強い」と感じている、高級オーナードライバー層に向けたモデルだった。そのためライトバンなどの商用車やタクシー向けの営業車は設定されず、今で言うプレミアムなイメージが与えられていた。
開発に際してベンチマークとしたのは、BMWをはじめとするハイレベルな欧州車。居住性能を含めた全性能が世界水準を上回ることが求められ、動力性能の数値目標は高性能車の基準だった最高速度100mph(約160km/h)、0-400m加速18秒台。優れたロードホールディング性とシャープなハンドリング、そして快適な乗り心地をすべて満たすことが要求された。その結果、前述したような高級なメカニズムが導入されたのだ。
だが、開発途中の1966年に日産がプリンスを吸収合併したことによって、ローレルの開発計画は大きな影響を受ける。社内事情から、ローレルはもともと鶴見(横浜工場がある日産発祥の地)で開発されたクルマであるにもかかわらず、荻窪(旧プリンスの開発部隊の所在地)で設計されたG型エンジンを積み、旧プリンスの村山工場で生産されることになったのである。いうなればローレルは、本家である日産から、分家であるプリンスに里子に出されてしまったのだった。
社内で微妙な立ち位置に
初代ローレルの弟分である510ブルーバードは、日産の主力車種であり、いわば本家である日産家の嫡男。一方、分家であるプリンス家には、「スカイライン」という嫡男がいた。このスカイラインはローレル誕生から4カ月後の1968年8月にフルモデルチェンジを受けて3代目C10系、通称ハコスカになった。
これら3台は、車格と価格が微妙にオーバーラップする兄弟分ではあったが、本家と分家それぞれの看板を背負った510ブルーバードとハコスカは、しゃにむに働いた。その一方で運動会となれば大張り切りで、徒競走(レース)ではハコスカが、泥んこ競争(ラリー)では510が無敵の存在だった。
それらに対して、里子のローレルは「あくせく働いたり、他人と争ったりせず、お行儀よく振る舞っていればよろしい」と言われていたようなもの。売れ線を狙ってバリエーションを広げることもなく、持って生まれた高い運動能力を世に知らしめる機会にも恵まれなかった。その結果、「落ち着いた大人のクルマ」と評されたものの、510やハコスカのような人気者にはなれなかったのだった。
そうした社内での立場に加えて、社外にはトヨタの初代「コロナ マークII」という強力なライバルがいた。ローレルに5カ月遅れて登場したコロナ マークIIは、1600ccおよび1900ccのエンジンと豊富なバリエーションをそろえて、当初は1800ccの4ドアセダンのみだったローレルを挟み撃ちする作戦をとっていたのだ。そのコロナ マークIIは、前ダブルウイッシュボーンの独立、後ろリーフリジッドの足まわりにターンフローのSOHCエンジンという、堅実だが平凡な設計だった。
いまではレアな国産車
話を「日産ローレル C30 発売50周年を祝う集い」に戻そう。会場となる、生まれ故郷である村山工場の跡地に建つ日産ディーラーに集まった初代ローレルは、セダンが3台、2ドアハードトップが4台の計7台。初代ローレルだけのミーティングは初の試みで、周知の範囲は限られていたとはいえ、全国から集まって7台である。名車として語り継がれる、旧車界きっての人気車種であるハコスカや510なら、ローカルなイベントに意図せず集まっても、まったく不思議はない台数だ。
この事実からも、今となっては初代ローレルがいかに希少な存在であるかがおわかりいただけるだろう。だが開催規模はクルマにふさわしく控えめだったものの、村山工場跡地を巡る里帰りドライブや、初代ローレルの企画担当者だった日産OBの前田輝夫氏をゲストに招いてのトークショーなどで構成された内容は、マニアックで濃密。優れた資質と端正な姿を持ちながらも、やや大げさにいえば運命にもてあそばれた感のある初代ローレルを深く知ることのできる、めったにない機会だった。
なおローレルは、1972年4月に初のフルモデルチェンジを受ける。この2代目C130系は、5カ月後に登場する通称ケンメリこと4代目C110系スカイラインとプラットフォームが共通化された。設計が全面的に鶴見から荻窪に移管され、これ以後ローレルは、スカイラインと血肉を分けた兄弟として育っていったのだった。
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